妊娠は、家族の始まり。
喜びと希望に満ちた日々――と思われる方もいるかもしれません。
けれど私の家では、それは暴力の始まりでした。
しかもそれは、家庭の中で起きていたことで外の誰かには知られることのない、
閉鎖的で深刻な暴力の幕開けだったのです。
今回は父による家庭内暴力の始まりについて書いていきます。
感情的な母の言葉の暴力と、格闘家だった父による本気の暴力
両親は結婚後まもなく私を妊娠しましたが、その頃から意見の衝突が増え、父は母に暴力をふるうようになりました。
新妻で、初めての妊娠。
言葉だけ見ると、希望に満ちたやさしさに包まれるような時期にも思えるかもしれません。
しかし、父はその頃から母に暴力をふるうようになったのです。
母は気の強い性格で、自分が正しいと思えば感情的に相手を責めるところがあり、いわゆる「言葉の暴力」を日常的に振るう人でした。
一方、父は短絡的で思い込みの激しい性格で、人や物事が自分の思い通りにならないことが我慢できなくて、逆上すると怒鳴り散らし手が出てしまうタイプの人間でした。
父は過去に格闘技の経験があり、怒鳴り声とともに出てくる言葉は支離滅裂で、その暴力は「夫婦喧嘩」という言葉ではすまされない、人の身体を的確に痛めつける方法を知っている人間の「本気の暴力」でした。
お腹の中に私がいることを知っているはずなのに、お互いにやめようとはしなかった「暴力」、今にして思えばこれこそが私が最初に毒親である両親にされた仕打ちだったのかもしれません。
子どもをめぐる“ある言葉”──このとき母はまだ知らなかった
初めての妊娠に夫からの暴力、母はたまらず自分の実家の父母と兄夫婦(私の母方の祖父母と伯父夫婦)に相談しました。
この時母は、ある言葉をかけられていたそうです。
そして私がそれを知ったのは、中学生になった頃のことでした。
この出来事については、
第4回の記事「私は最初から〝いらない子“だった│中学生の私が聞かされたこと」にて、あらためて綴ります。
援助のはずだった「新居購入」──嘘のように消えた約束
母の妊娠発覚直後、父の実家は「援助するから、この建売住宅を買いなさい」とある物件の購入をすすめてきたそうです。
その物件は父の実家からほど近く、無断で婚姻届けを提出されたこともあり母には父の実家とはある程度距離を置きたい気持ちがありましたが、
母は「子どもを育てる場所になるのなら」と考えたことと、父には独身時代に趣味だった車で作った借金があるのが結婚後に発覚したこともあり、「援助する」という言葉を信じてその物件を購入することに同意しました。
しかし——実際には一円たりとも援助はありませんでした。援助は、言葉だけ。
「あのおばあさん(父の母、私の父方の祖母)は、嘘つきだから。」
後年、母が私にこの話をする時は、毎回こう言って締めくくっていました。
子どものための庭が、母の不在中にベンツが鎮座するガレージへ
先述した新居の南側の裏手は庭になっていて、当初は子どもを遊ばせるためのスペースとして使って、子どものために家庭菜園で苺等を植えたいと母は父と話していたそうです。
ところが、母が私を出産して一時的に里帰りで不在にしていた間に、父はその庭の大部分を潰してコンクリートを打ち、大きなガレージを立ててしまいました。しかも、その中には、母に無断で購入した真っ白なベンツが鎮座していたのです。
そのベンツは、父が新たに借金をして手に入れたものでした。
見栄も確かにあったでしょうが、それ以上に、父には「好きなものをどうしても手に入れずにはいられない」という、抑えきれない衝動のようなものがありました。
まるで、子どもが「欲しいおもちゃを手に入れたくてどうしようもなくなる」ような執着。父にとって車はまさにそういう存在で、理性や家族の生活を顧みることなく突き動かされる対象でした。
実は、父は独身時代にも車を趣味にしていて、すでに借金を抱えていたことが、結婚後に判明しています。
さらにこのベンツ購入以降も、母の反対を無視して高級車を次々と買い替え、借金は膨らみ続けました。こうした父の行動は、後に我が家が経済的に困窮していく要因のひとつとなっていきます。
このあたりの父の金銭感覚の欠如や浪費癖、そしてその背景については、また別の記事で詳しく触れる予定ですが――
この“庭の消失”は、父という人間の本質を象徴する出来事だったように思います。
「子どものための庭」は、父の欲望の前に、あっけなく消えてしまいました。
産後わずか10日で強引な連れ戻し、休む間もなく家事と育児
私を出産後、母は体の回復と新生児の育児のため実家に里帰りしていました
ご家庭にもよるかと思いますが、現在でも里帰りの期間は1~2ヶ月程、少なくともいわゆる床上げまでの3週間程だとは思いますが、
父はわずか10日で母の実家に押しかけて半ば強引に母と私を連れ帰ってしまいました。
父は産後の母が自分や家のことを放っておいて実家に帰っていることが腹立だしく気に食わなかったという、あまりに自分勝手な理由からです。
家に戻った母は、当然のように家事と育児をすべて一人でこなし、そしてまた暴力を振るわれるという日々がしばらく続いたそうです。
「守られるべき時期」に傷つけられるということ
妊娠中や産後というのは、本来、
最も心と体が不安定になりやすい時期であり、周囲からの配慮と支えが必要な時です。
それなのに、母はその時期に最も近い存在から暴力を受け理不尽な扱いを受けました。
父に対して「言葉の暴力」を振るい続けたことにももちろん大きな問題があります。
しかしながら、いかなる理由があろうとも人の心身を著しく傷つける暴力は絶対にあってはいけません。
そして、父からのこの暴力こそが、母を毒母へと変貌させる決定打になったと私は思っています。
母は「傷つけられた側」として生きる中で、次第に「支配する側」へと変わっていきました。
その結果、私の生き方を強く支配し、私の人生に深い影を落とすことになっていったのです。
家庭は最初から「安心できる場所じゃなかった」
このように、私がこの世に誕生する前から、
我が家ではすでに暴力と支配、恐怖と無力感が渦巻いていました。
家庭とは、子どもにとって最初の世界です。
でもその世界に、安心も尊重もないとしたら―
その子どもは、一体どんな心を育てていくのでしょうか。
――私は、その“安心できない世界”で育ちました。
次回予告
次回は、
「誰にも知られず続いた家庭内暴力の日々│毒親という夫婦③」をお届けします。
私が12歳で両親が別居するまで続いた、密室の中での暴力と、
それを誰にも言えなかった日々について綴っていきます。
どうぞ引き続きお読みいただけたら嬉しいです。
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