私は最初から“いらない子”だった│毒親という両親④特別編

過去編│両親という毒親

前回までの記事で主に、私の両親の結婚から私が誕生した後のことまでを書きましたが、読んでくださった方の中には、

「どうして自分が産まれる前のことから赤ちゃんの時までのことを知っているの?」

と思われた方もいらっしゃるかもしれません。

毒親育ちの方はお気づきかと思いますが、前回までの記事の内容や今後の記事に書いていく出来事は、私の母が小さい頃から断片的に何度も私に語ってきたことだからです。

恐らく母は、家の中で他に誰も味方がいなかったことから、「娘だけでも自分の味方にしておきたい」という気持ちがあったのだと思いますが、

自分が子どものためにどれだけ苦労をしたかを“美談”として語って聞かせることで、子どもに自分を絶対的に信頼させて支配しやすくしたかった――

今にして思えば、そういう気持ちが年々強くなっていったようにも感じます。

強い言い方をすれば、マインドコントロールの一種だったとも思います。

今回は、母が私に語ってきた数々の“美談”の中でも、特に私が「聞きたくなかった」「知りたくなかった」と感じたお話を、「毒親という両親」編の番外編として書かせていただきます。

■妊娠初期の母が実家で言われたこと

先述した通り、父の母に対する暴力は、母の妊娠が発覚した直後から始まっていました。

その時、母のお腹に宿っていたのが、まさに私でした。

初めての妊娠に、夫からの度を超えた怒号と暴力―

さすがに気の強い性格の母もたまらず、自分の実家の両親と兄夫婦(つまり私の母方の祖父母と伯父夫婦)に相談しました。

「離婚を考えていること」と、「お腹の子をどうすべきか」を。

そして、祖父母と伯父夫婦からの回答は、当然ながらも冷たいものでした。

「離婚をするなら、お腹の子は堕ろすしかないじゃろ。」

母が離婚して再婚する可能性や、出産後の苦労を考えたうえでの言葉だったのだとは思いますが、

そこには田舎ならではの「シングルマザーとその親族である自分たちが、どんな目で見られるか」といった世間体を気にする気持ちも、あったのではないかと思います。

■母が本当は両親に言ってほしかったこと

母はもしかしたら、本心では

「お腹の子と一緒に実家に帰ってきて、一緒に育てよう」

と言って、実家に温かく迎え入れてほしかったのかもしれません。

ですが、そんな優しい言葉が出てくるような祖父母ではありません。

察しのいい方はお気づきかと思いますが、祖父母も母にとっては毒親で、母もまた、子どもの頃から自分の親に葛藤を抱えて育った人でした。

そのあたりのことは、後日「私たち母娘の世帯間連鎖編」として改めて記事にさせていただきます。

■小さな救世主

身内からの、当然ながらも冷たい物言いに、頭では理解しながらもショックを受けた母。

家に帰れば、身重の体にまた父の暴力が降りかかる――そう思うと、

「両親と兄の言う通り、お腹の子のことはあきらめて離婚しよう」

と考え始めたその時、意外な救世主がいました。

その場に居合わせていたのは、伯父夫婦の間に生まれた赤ちゃんの姪(つまり私の従姉妹)。

覚えたばかりのよちよちとしたハイハイ、こちらを見つめる屈託のない目、赤ちゃん特有のなんとも言えない匂い――その愛らしい姿を見ているうちに、

「こんなにかわいい子が私のお腹にいるのなら、産みたい。」

という思いが芽生え、母は私を産む決意をし、この日は父の元へ帰っていきました。

■それを中学生の私に語った母

このエピソードを母に聞かされたのは、私が中学生になったばかりの頃でした。

母が私たち姉妹を連れて家を出てから、まだ1年ほどしか経っていない時期。

日常に父の暴力がある生活から抜け出した反動からか、思春期を迎えたばかりということもあり、子ども時代から自分の中で蓋をしてきた感情や違和感に、敏感になっていた頃でした。

私は子どもの頃から、両親を含め周囲の大人から劣等生扱いされてきた子どもで、思春期の頃にはすでに強いコンプレックスを抱えていて、生きづらさを感じていました。

そんな私に母は、

「あなたを産むために私はこんなにつらい思いをして苦労したのよ。」

と言わんばかりに、それを“美談”として語ってきたのです。

当時、まだ半分子どもだった私は、

「お母さん、そんな大変な思いをして私を産んでくれたんだ」と思う一方で、

もう半分では、こう思いました。

「おじいちゃんもおばあちゃんも、おじさんもおばさんも、そして母までも一度は私の存在を否定しようとしたんだ。

だから私はこんなにも劣った子どもなんだ。私は最初から“いらない子”だったんだ。」

子どもなりに、仕方のないことだったと頭では理解しても、感情のほうは追いつきません。

劣等感を抱えていた私にとってはショックの大きな話でしたし、

それと同じくらい、娘を傷つける可能性も考えずに“美談”として語った母に、不信感と違和感を覚え、いっそう私の劣等感と孤独感を強める出来事となりました。

■親の語る“美談”は、子どもにとってもそうであるとは限らない

世間の毒親の多くが、子どもに何かしらの“美談”を語って聞かせることは、よくあることだと思います。

私の母の場合は、「自分が話したいし、聞いてほしい」という気持ちと、

無意識に近かったのかもしれませんが、「娘を支配しやすくするための手段のひとつ」として語っていたのだと、今では思います。

そこには、話を聞いた娘がどう思うかや、子どもの心がどう傷つくかなど、まったく考えられていませんでした。

ただただ、自分のために語ったというだけでした。

そして、その話を聞いて母に不信感を抱いた私は、

「苦労して私を産んでくれたお母さんに不信感を抱く私は、悪い娘なんだ。」

と、罪悪感まで抱えていました。

今の私が、あの頃の私に言えるとしたら――

「親の語ることが正しいとは限らない。罪悪感なんて持たなくていいんだよ。」

と教えてあげたいです。

そして、あなたがもし自分の子どもや身の回りの人に何かを語るときは、

「これは本当に相手のために語るべきことか?それとも、自分のために話そうとしているだけではないか?」を、

どうか一度立ち止まって考えてみてください。

■「いらない子ではなかった」―自分でそう思えるようになるまで

大人になって私自身が母親になった今でも、上記のエピソードは思い出すだけでもつらい気持ちがよみがえり、時折泣きたくなることがあります。

産まれてからも、日常的にある父の暴力や、母との葛藤等、常に劣等生扱いされるしんどさ等、つらいことが連続の子ども時代でした。

大人になるにつれてそれは自己否定感に変わり、自分のことが受け入れられない、皆の中からいなくなって忘れられたいと思うことが、わりと最近までしょっちゅうありました。

ですが、母と絶縁して、ようやく自分の人生をリスタートさせていく中で、少しずつですがようやく自分のことが受け入れられるようになりました。

あの時、皆に消えることを望まれた私ですが、こんな私を受け入れてくれた夫に恵まれて結婚し、その私の生命を通して今は愛おしい2人の子どもたちを授かりました。

まだまだ、生きづらさを感じる場面に遭遇することはありますが、「私はいらない子ではなかった」と自分で自分に言い聞かせられるようになりました。

毒親育ちの方の中には、私のように「いらない子だった」と苦しんだ経験のある方は少なくないと思います。

過去に毒親にそう言われたことや、あなたがその言葉で傷ついた事実は変えることはできませんが、「いらない子なんかじゃなかった」と自分自身にこれから何度でも語りかけることはできます。

特に最初はうまくできないかもしれません。

私も長いことそんなふうに思うことができませんでした。

きっと、子どもの頃に浴び続けた言葉や視線が、心のどこかにこびりついていたんだと思います。

だから、うまくできない時があっても大丈夫です。

どうか、そんな自分を責めないでください。

そして、できれば――そんな自分までも否定しないでいてあげてください。

ほんの少しずつでも、自分に語りかけるという行動を積み重ねていけば、ある日ふと、気持ちが軽くなっていることに気がつく日がきっとやってきます。

■次回予告

次回は、前回の続きとして、母と私が父の元へ帰ってからのことを書かせていただきます。

今回は特別編にお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回も読んでいただけたら、とても嬉しいです。

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